二人の母が語る 希望は失望に終わらず

一人は失明・失聴の子を東大教授に

一人はダウン症の子を書家に

盲ろう者と育った息子に、ダウン症として生まれた娘に二人の母は「指点字」と「書」という秘法を授けた。それはやがて彼らの行く道を照らし、人生をひらく原動力となっていく。福島令子さんと金澤泰子さん。一介の主婦だった二人の人生は、一人の子を産み、育てたことによっていかに磨かれていったのだろう。そしてそこに、どんな人生の光を見出したのだろう。

 

ダウン症児を持つ母親たちに希望を

福島:金澤さんとお会いするのは初めてのことですが、以前、テレビのドキュメントか何かで見て、なぜか印象に残ってたんですよね。お母様の指導を受けながら翔子ちゃんが大きな書を書いておられて。

金澤:私も福島さんにはぜひお会いしたいと思っていたんです。智(さとし)さん、すごいじゃないですか。二年前に、盲ろう者として初めて東大教授になられた時も随分話題になりましたが、最近ますますご活躍の様子ですね。

福島:ありがとうございます。まあ、本人はストレスが相当多く、いっぱい病気を抱えていますが、皆さんの前ではニコニコして、健気(けなげ)な感じがしますね。翔子ちゃんじゃないですけど。

金澤:健気といえばね、ほんと健気で、もう手を合わせたくなりますよ。いま智さんはおいくつになられました?

福島:それがもう、知らない間に四十七歳になってるんですよねえ。私、いまでも高校生くらいに思ってるんですが(笑)。

金澤:おかげさまでうちの翔子も二十五歳になり、どうにかなってくれました。家ではちょうど二十年前から書道教室をやっているんですが、二百名ほどいる生徒さんの中には障がい者もたくさんいて翔子はその指導もしているんですよ。

福島:へえ、翔子ちゃんも教えておられるの?

金澤:そうなんです。それでいま、本人も個展をしている最中で、年に何回もいろんな所から声をかけてくださるんですね。

 個展をする時には席上揮毫(せきじょうきごう)といって、皆さんの前で五mほどの大きな紙に書き、ダウン症でもこんなに元気でいられることをなるべく見てもらおうと思っているんです。私が翔子を産んだ頃は、ダウン症に関する情報も世の中にほとんどなく、希望か全くなくてね。

 泣きながらあの子を育ててしまったものですから、ダウン症児を持つお母さん方に「希望を持ってください」と伝えたくて、あちこちを回らせていただいています。

福島:翔子ちゃんにはどうして書道を教えようと思われたんですか。

金澤:もともと書は私自身、柳田泰雲先生に師事してずっとやってきたんですが、翔子に教え始めたのは、彼女が五歳の時でした。

 ダウン症の子は言語障がいが強いですし、お友達と心を打ち明け合ったりもできないだろうから、孤独だろうと。私のいなくなった時に一人でも時間を潰(つぶ)せるようにと思ったのがきっかけでしたから、翔子の書が世に出るとは夢にも思いませんでした。二十歳の時に、個展を開く機会をいただいたのが始まりで皆さんの目に触れることになり、現在に至っています。

 

神様から鉄槌を食らわされた

金澤:智さんは、いま東大で何を専門に教えておられるんですか。

福島:なんでも教育学の中に「障害学」という分野を初めてつくったとかで、国内外あっち行ったりこっち行ったりで大変みたいです。

金澤:ご結婚もされてぃますよね。

福島:おかげさまでもう十五年になります。智は平成十三年に東大に招聘されたんですが、それまでは金沢大学にいたんです。普段は私が考えた「指点字」という方法で会話をしていて、これの通訳者が東京にはたくさんおられるんですが、当時の石川県にはまだ1人もいなかったんですね。だから智の嫁は、日常生活から大学の講義からすべてに付き添って、それは大変だったと思いますよ。

 いま智は、全国盲ろう者協会の理事も務め、障がい者全体の福祉増進を図ったり、国の機関にも働きかけているんですが、あの子の苦労を考えたら、本当に何でもできるように思いますね。

 翔子ちゃんは金澤さんにとって、初めてのお子さんだったんですか。

金澤:はい。私か四十二歳の時で、当時はかなりの高齢出産でした。

 振り返ってみると、翔子が生まれるまでは、いろんなことがうまくいき過ぎていました。だから、もし翔子が健常者だったら、たぶん鼻持ちならない人間になっていたんじゃないかと思うんです。

 本当にいい気で生きていたものですから「知的じゃないものは美じゃないよ」なんてひどいことを嘯(うそぶ)いていました。主人ともお能の関係で知り合って、もし男の子か生まれたら「花伝書(かでんしょ)」に従って日本一の能楽師にしようとかいい加減なことばかり考えていたんです。

 昭和六十年に翔子が生まれた時、ダウン症のことは周りには知らされていたんですか、帝王切開でしたので、私は知らなかったんです。で、翔子は四十五日間、カプセルの中に入れられていました。

 私は母が産院をしていたものですから、多少の知識があり、もしかするとダウン症かもしれないと疑惑を持ちながら過ごした時期が1か月近くあったんです。

福島:随分ご心配だったでしょう。

金澤:はい。それで私、このことは皆に知らせられない、と思いましてね。母にも、まして主人には言えないから、一所懸命隠してたんです。で、二人の退院の日、意を決して先生に「娘はダウソ症でしょうか」と尋ねたら「そうです」と言われたんですよね。

 その時に本当に背筋が凍る思いでね。この子には知能が全くなく、一生歩くことができないと。その瞬間、ダーンッて、神様から鉄槌を食らわされたように感じました。 知能がまるでない寝たきりの子を、私がこの世に出してはならない。大きくなる前に揺り籠の中で始末しなきゃいけない、私と一緒に死ぬしかないと、ずうっと思い込んでいました。

福島:そこまで思い詰められて。

金澤:最近、その頃の日記が出てきたんですけれども、すごい苦しみようでしてね。死にたくてもなかなか死ねなくて、非常に苦しくって。ああ、この世には、どうしようもないことかあるんだ、ということを初めて知りました。

 

三歳で右目を失明

金澤:福島さんも、智さんが初めてのお子様ですか。

福島:いえ、上に兄が二人いましてね。だから私は子供って、元気に生まれて、健康に育って当たり前だと思ってたんですよ。実際、智は体重も四kg近くあって、離乳食もよく食べるし、生後一年ぐらいは元気に育っていたんです。

 ところかある時、二人の兄が流行り目(流行性結膜炎)をもらってきたんですよ。智にうつしたら大変だと思ってかなり気を遣ったんですか、知らない間に智も目が真っ赤になったんですよね。

 主人からは「これは異常だから、眼科に連れていけ」と言われたんですか、私はその時なぜか「どうせお兄ちゃんと同じ流行り目で、薬もあるから」と言って病院には行かなかったんですよ。ところがしばらくしたら智の真っ黒だったお目々がね、さっと曇ったんです。

金澤:目が曇った?

福島:そう、磨(す)りガラスってあるでしょう。あんなふうに黒い角膜がさっと曇ったんですよ。慌てて病院に行ったんですが、「お母さんの思い過ごしでしょう。生まれた時から鳶色(とびいろ)やったんと違いますか」って言われたの。

 そんなアホな、と。母親ってね、もう、いっつも抱っこしておっぱいもやりますし、一番よく見てますからか。そんなことありませんって、二十日間問答したんですよ。でも先生、信じてくれなかった。

 そしたらある時、智の横顔をふと見た先生か「ええっ、お母さん!えらいこっちゃ。智君の目の色がおかしい」って。

金澤:そこで初めて気がつかれた。

福島:でもその時は何が原因か分からず、表面が荒れているだけだから大丈夫だ、ということでした。ただ赤ちゃんだから大事をとろうというので、私は智をおんぶしながら、毎日毎日病院へ通いました。

 それで一年間通ったら曇りが取れて喜んだのも束の間、冬が巡ってくるとまた同じ症状か出たので、大きな病院へ連れていったんです。すると「重大な病気が隠れているかもしれませんから、入院してください。ひょっとすると手術をするかもしれません」と言われました。それですぐ入院の手続きをしたんですが、先生方も何が原因かが分からないから、手当たり次第いろんな検査をされる。

金澤:原因が分からなかった。

福島:初めての全身麻酔をして検査をしたその日、先生から「眼圧(限球内圧)を測ったらいまのところギリギリの線ですが、予防的に簡単な手術をしておきませんか」と言われたんです。私、その時、嫌やなあと思ったんですよ、智の目にメスを入れるということか。

 でもちょうど主人か仕事の忙しい時期で検査に立ち会えず、その場にいなかった。だから、決断は私にかかってるんですよ。で、迷いながらも「先生がそうおっしゃるならお願いします」と言ったんです。小さな手術だったそうですが、結果的に見ると、その刺激が後々までも災いしましてね。

 だんだんだんだんいろんな症状か出てきて、ひどい炎症が出るようになりました。智が三歳になった頃、手術をしたその先生が「お母さん、いくら高価な薬を使っても、枯れた木に花は咲きませんよ」と言ったんです。

金澤:なんてひどいことを。

福島:ある日「もう智君の右目は、たぶん見えないと思います」と言われました。でも私、そんなこと信じられませんでしたよ。だから家に帰って実験してみたんです。

 まず冷蔵庫の棚にある苺(いちご)を両目で見させる。次に、手術をしていない良いほうの左目に眼帯をさせ、苺を下の棚へ移す。そして「どこに苺がある?」と尋ねたら「おんなじ所にあるよ」と言った。これで悪いほうの右目では見えないことがはっきりしました。……それね、三歳の子がね。母親を思いやったんやと思ったんです。見えないよと言ったら、どれだけ私が悲しむかと思ったんでしょう。

 さらにその直後、左目を守るために右目を早く摘出しなさいと言われたんです。でもね、そんな残酷なことは私………、だからあの頃はもうほんとに毎日泣きましたね。

 

「かわいさ」が子供を育てさせる

金澤:智さんはもちろん、お母様もともに苦しかったでしょうね。

 私のほうは、死にたいというんじゃなくて、死ななくちゃいけない、私が責任を取って始末しておかないとまずいだろうと。知能が全くないというのは、想像もできないほど恐ろしいことでしたから。

 ただ、そうやって私のほうは動揺していましたが、翔子は賢くてね。私かお乳を薄めて衰弱死させようか、なんて馬鹿なことを思っていても、ニコニコニコニコしてましてね。。結局このかわいさで私はお乳を薄め切れない。「かわいい」ってことが、子どもをを育てさせちゃうんですね。それがどうしても翔子を始末できない理由でした。

 ただかわいそうに、四十五日間カプセルにいて、誰にも抱かれず育った翔子を初めて抱っこした時に、私泣いてましてね。あの子が初めて見る母親の姿が、ずうっと泣き顔だったわけですよ。そうやって取り返しのつかないことをし

てしまったんですが、空間を見て、ゆえもなくニコッて微笑む。私はそれが知的障がいの大きさであり、また強さではないかと感じました。

 それと、時問の経過とともに徐々に立ち直っていく過程で、姉がある時、「ダウン症で医師になった人がいるのよ」と言ってくれたんです。きっと私を励ますために嘘を言ったのだと思うんですが、その時に「希望」というものか初めて

見えたんですよ。そして、いろんな訓練を始めたんですね。

福島:ああ、希望が持てたことで。

金澤:私、いまとなってみれば、ダウン症はダウン症でよかったんじゃないかと思うんです。この世に生まれてきてくれた。それだけで十分なのに、自分が望む子じゃなかったから苦しかったんだって。

 実は翔子が生まれる時、仮死状態で敗血症を起こしていたため、主人には病院側から交換輸血の必要性が説明されていました。「ダウン症を持って生まれた子だから、交換輸血してまで助けるのはどうだろうか」と言われたんですってその時に主人は「主よ、あなたの挑戦を受けます」と言って翔子の命を助けた。その話を私の脇で能天気に話しているんですよね。私は殺さなくちゃいけない、と思っているのに、どうして助けちゃったの?と思っていたんですが。

 それから三年ぐらいがたった時、主人は「僕が翔子を助けたことを、やっとありがとうと言える日がきたね」なんて言ってましたから、すべて分かっていたんでしょう。主人は翔子が十四歳の時に心臓発作で亡くなってしまいましたが、

いまとなれば「ありがとう」と言わざるを得ませんね。

 

十歳で般若心経に挑む

金澤:翔子は最初、小学校の普通学級に入っていたんですが、四年生に上がる時、担任の先生から「もう預からない」と言われちゃったんです。それで私、またダーンと落ち込んだんですが、でもすごいと思うんですね、人生は。

 というのは、その時にあまりにも膨大な時間があるので、翔子に般若心経を書かせようと思ったんです。普通に考えれば絶対無理ですよね。大人でもなかなかうまく書けないのに、それを十歳の、しかも障がいの子に。でもやろうと決心して、毎晩私が罫線を引き、来る日も来る日も挑みました。

 それで私も自分の子だから、容赦なく叱り飛ばしてしまうんです。「なんでいま頃、こんなこともできないの!」って。翔子は叱られることがとっても辛いわけですよ。

 さっきの苺のお話が、とてもよく分かるんですが、子供って決して親を悲しませたくないし、親が嫌がることは絶対言わないんです。だから本当に毎晩涙を流しながらだったんですか、遂に二百七十二文字分を書き上げた後、翔子は畳に両手をついて 「ありがとうございました」と言ったんです。

福島:ああ、十歳の翔子ちゃんが。

金澤:翔子の場合は、すべてにおいてそうですね。誰か教えたわけでもないのに「ありがとう」って。例えば「暑い、寒い」も皆に心配をかけると思って言わないし、そういう感謝の念とか、人を喜ばせたい、悲しませたくないという気持ちが人一倍強い。翔子には知的障がいかあって、名誉心や競争心がないから、人を妬(ねた)んだり、羨(うらや)んだりすることもない。だからその分、心や魂が汚れていない。そういう翔子の姿を見ながら教えられたのは、愛情こそが人問の根本であり、本質なんだということでした。

 

これからをどう生きるか、が大切

金澤:でもそうやって私が少しずつ良くなってきだのに対して、福島さんのほうは次から次へと障がいが重なっていきますよね。

福島:はい。右目の摘出手術を終えた後も、炎症が出てきて安静にしてくださいと言われ、小学校も三年からはほとんど通えていないんです。義眼が理由でいじめにも遭い、そのストレスが原因で症状も悪化。再び入院となりました。

 ただ入院した時は、視力も0.8あったんですよ。外来の時は偉い先生にだけ診てもらって「智君の目は触ったらいけない」と、大事に大事にしてもらっていたんです。でも入院して初めての手術の時、担当の先生が代わられたの。

そしてその先生が私の留守の間にちょっと手術をしたそうなんです。

金澤:お母さんのいない間に?

福島:ええ。触ったらいけないという目ですのにね。それも最初は手術室でやってくれてたのに、終いには処置室でやり出すようになって。するとある時、智が「お母ちゃん、何か、景色が万華鏡みたいに見えるよ」と言い出して、目の中が変化してきたんですよね。それで入院から半年が経った九歳の六月に失明してしまったんです。

金澤:ああ、両目とも………

福島:智はね、失明する前に眼圧か上がってね。もう、辛抱強い子やのに泣きました。そうすると、熱は出るし、お部屋の人が皆寄ってきて、足をさすったり何かしながら「頑張れ」とか「神様に拝んであげる」とか言ってくれました。普段泣かない子が泣くんですから、相当痛かったと思うんですけど。

 大人でも、眼圧が上がったらすごく苦しいそうですね。もう、ほんとにあの時はかわいそうだったですよ。智は水を飲まなかったら眼圧は上がらないと信じ切っていて、好きな苺を食べる時でも、これ一個で五cc分かなとか言いながら。そのうち師長さんが「お願いやからヤクルトでも飲んでちょうだい」と言いましたが、意志が強くて頑として拒否し、水でうがいなどして辛抱していました。智の皮膚はミイラみたいに皺(しわ)が寄ってね。その後、最後の手術をされたけど、眼圧が上がり切っていてもう手に負えなかったですわ。

金澤:見てる側も堪らないですね。

福島:その時、智はね、いろいろと考えたんだと思います。まだ九歳やのに、偉いなあと思いますよ。

 智の入院費用などをたくさん出してくれていた祖父が、智の目が見えなくなったと聞いたら、もう、泣いて、泣いてね。祖母が言うには、家で祖父の姿を三日間も見かけないと思ったら、家の二階ヘ上がって泣いていたそうです。

 でも智はね、お医者も恨まなかったし、神仏にも不平を言わず、親にもとやかく言いませんでした。

金澤:すごいお子さんですね。

福島:そしてね、自分は失明しているのに、祖父が泣いてると聞いたら「お祖父ちゃんに電話をかけるから地下まで連れてって」と言って、病院からこんな電話をしたんです。「お相父ちゃん、泣いても仕方ないんだよ。するだけのことをしてこうなったんだから。世界中で一番偉い先生が診てもダメな時はダメなんだよ」って。

 そして「僕はね、いま悲しんで泣いてるより、これから先、どういうふうに生きていったらいいかを考えるほうが大事だと思ってるんだよ。お祖父ちゃん、僕は大丈夫だからね」。

 祖父はそれを聞いて、余計泣いたと言いました。親が言うのもおかしいですか、この時は私も、すごい子やなあと思いました。

 

苦しみ抜けば違う地平に出られる

金澤:しかし本当に壮絶ですね。

 私がいま振り返ってみて、自分のしたことで唯一翔子にとってよかったと思うのは、彼女に「ビリ」の地位を見つけてあげたことだと思うんですよ。

 私が狂気の如くなっている時に、いろんな本を読んだんですが、その中にある「神はこの世に不要なものはおつくりにならない」といった言葉を日記に書き出したりしていました。普通の親はだいたい上を目指していますから、最後の位置って誰も見てないんですね。

 翔子はとにかく何をやってもビリなので、ある時先生にご迷惑を掛けて申し訳ないと言うと「いや、翔子ちゃんがいるから、クラスの皆が優しくなるんですよ」と言ってくださったんです。翔子がビリを受け持ってるから、成績のよくない子も安心してるし、ひ弱な翔子を守ろうとして優しくなるって。

福島:子供たち同士で思いやりが生まれるんでしょうね。

金澤:そしてその時に「ピリ」を徹底していけばいいだろう。それをきちっとやろうと決めて二十年近く過ごしてきたんです。そしてずうっとビリのままできていつか抱いた「この子を何かで日本一にしたい」なんて思いは一時(ひととき)たりと浮かんだことかありませんでした。

 ところが翔子がニ十歳になって初めて個展をやった時、銀座書廊に二千人以上もの方が来てくださったんです。そしてその後、テレビ局から送られてきた番組のレジュメに「日本一のダウン症書家・金澤翔子さん」と書かれてあった

んですね。それを見た時に、人生ってすごいと思いました。二十年間、一度も頭をよぎったこともなく、地を這(は)うような思いでずうっとビリをやってきたんですが、突然、日本一だなんて言われて。

 だから禍福は糾(あざな)える縄の如しといいますが、本当は禍も福も同じなんじゃないかって。

福島:なるほど、禍も福も同じと。

金澤:だからやっぱり、苦しみが人間を育てるんでしょうね。辛い時は辛いことを、苦しい時は苦しいことを苦しみ抜けば、何か違う地平が見えてきてね。だから、確かにとっても苦しい思いをしたんですが、翔子によって違う地平に出られましたね。

 いま、鎌倉の建長寺さんにも毎年個展をさせていただく機会を頂戴しているんですが、今年のゴールデンウィークには一万八千人もの人が来てくださったんですよ。

福島:へえ、すごい数ですね。

金澤:お寺始まって以来といわれるぐらいの人が並んで、拝観者全員が入り切れなかったほどすごい人だった。私はその様子を上のほうから見ていたんですが、人知を超えた力がこの世にあると感じざるを得ませんでした。

 自分は、翔子が生まれた時からずっと「ダウン症を治してください、奇跡を起こしてください」と神様に祈ってきたんですが、結局奇蹟は起こらなかったんですね。でもこの世には、何かのエナジーのようなものがあると感じることがたくさん起こってきています。

 また、そういう力があることを、翔子を通して理解できたことで、私の中で「許せない」といったことが全部なくなったんですよ。そしていまは非常に幸せな気持ちなんですね。それまでは人のために、なんて思ったことがなかったんで

すが、ここ数年は、翔子の書でこれだけ皆さんが感動してくださるんだから、障がいの子を持つお母さんたちの希望になるように、と思って活動しているんです。

 だから障がいで苦しんだ分、十分にいいものをもらってね、非常にいい人生になりました。

 

本当に神があるのなら 苦しめてばかりもいない

金澤:しかし智さんが視力だけでなく、まさか聴力まで奪われるとは想像もされなかったでしょうね。

福島:前兆は少しあったんですがね。小学校一年の時、耳鼻科で聴力を測ってもらったら普通の人の七割程度しかなかった。ただその時は目の治療に使っていたホルモンの薬が効いたのか、自然によくなってそのまま忘れていたんです。

 ところが十四歳の時に、突然右耳が聞こえなくなったんです。はっきりした原因は分かりません。それから四年後、筑波大学附属盲学校(当時)に存籍していた高等部二年の冬休み、智が帰省するので西明石の駅に迎えに行ったんですよ。そうしたら「お母ちゃん、ちょっと聞こえ方が悪いんや。いつもより大きな声で話してくれ」と言うんです。私、ギョッとしてね。明くる日に医大へ飛んでいったら、聴力が急激に悪化していたんです。

金澤:聞こえるほうの耳までが。、

福島:普通なら即入院で治療を受けるんですか、智は目が見えず、精神的によくないからという話になって、ホルモンの薬が出ました。でも智は「目の時にも飲んだけど効かなかった」と言い、服用を拒否しました。片や、主人は「現代医学を信じろ」と言う。

 一方、智の希望で漢方式の養生も始めました。食事は一日一食だけの玄米菜食のみ。毎日十`のランニングという厳しい自然療養法に母と子二人三脚で取り組むことになりました。

 数日後、智の好きなオレンジを主人か買ってきてくれたんですが、いくら大きな声で呼びかけても智が振り向かない。「おい、智の耳はどうなっとるんや」と聞かれたんですが、本当にそのとおりで、智の聴力は毎日毎日落ちてくる。

 ただそんな時でも、智は何かをいろいろ書いたり、勉強をきちっとしてるんですよ。日記をつける。読んだ本の感想文は、論文のように書いてる。この混沌(こんとん)とした時に、よくそんなことができたなって感心しますけど。

金澤:ものすごい精神力ですね。

福島:ただ本人は、これからどうなるかと心配してるだろう。智はいま一体、何を考えとるんやろうな、ほんまに……。そう思っていた時に、智がこんなことを言ったんですよ。「日本の偉い作家は、たいてい自殺しとるなあ」。

 私は何かの暗示かと思ってね。「あんた、死ぬことだけは考えんといてね。どうしてでもお母ちゃんが助けるからね」と必死に言いました。そしたら「アホやな、お母ちゃんは。僕がそんなことを考える人間やと思とったのか」と言って、ハッハッハッと笑い出した。あれ、笑いで何とかごまかしとったんやと思う。それから何日間かまた悩んだみたい。そしてある日、今度はこんなセリフを吐きました。

「僕は何日も何日も考えた。なぜなんだ?なぜ僕にだけ、次から次から、こういう苦難が与えられるんだと。そして考えに考えて、頭の中が透明になった時に、こういう結論に到達した。

 本当の神があるのなら苦しめてばかりもいない。僕をこのようにしたからには何か大きな意味があって、僕に何かを託しておられるのではないかと思えてならない」

金澤:……すごい。

福島:その時に、あ、この子はちょっと吹っ切れてくれたのかな、と思ったの。後から調べると、アウシュビッツの強制収容所で苦しんだ人も極限の状況下で同じようなことを考えていたらしいですわ。

金澤:しかしその間、お母様も気が気ではなかったでしょう?

福島:智が帰ってきたのが年末で、たった三か月の間に全然聞こえなくなっちゃうんですから、それは大変でしたけどね。

 でも私か最終的に思ったのは、ああ、智は命を助けてもらったんだと。東京で盲人が暮らすのは、すごく大変なことだと思う。健常者でも、毎日誰かが事故に遭ったりしますでしょう。智の周りにはいろんな人がいててくれたけど、何か起こっても不思議じゃない。だから智は命の代わりに耳をやられたんやなと、そう思ったのでね。あんまりうろたえなかったんです。

 

誠真実の心で生きていけばいい

金澤:智さんは苦しみには何かの意味があるとおっしゃったでしょう。お母様もそう思われますか。

福島:私は神様が智を育てるための人間として、自分を遣(つか)わされたんじゃないかと思うことか時々あるんです。

 私は幼い頃から病気がちな上、足の具合まで悪くなって、松葉杖をついたりしていました。憧れて入った高校も、通うだけでくたくたになって中退してしまったんですよ。その時、これからどういうふうに生きていったらいいんだろうと思って家中の本を読みました。

 すると、ある作家の本にあった「馬鹿でもいいから、誠真実の心で生きていったらいい」というフレーズがコトンと私の胸に落ちて、あ、私はこれでいったらいいんだ、と思ったんです。そういう経験をしたことが、智を育てる上で多少

は役立ったのかもしれません。

 いまでも外から帰って玄関の明かりをつけようとした時に、いや、智はずっとこの暗闇の中にいるんや、このまま入ってみようと思うんですが、慣れた自分の家ですら、あっちこっち体をぶっけたりする。

 テレビをつける時でもそう。ああ、智はもう、この音も聞こえないんやと思うと、胸がギューツと締めつけられる気がする。

金澤:想像するだけでも苦しくなりますね。

福島:私ね、あの子が失明した九歳の時に、自分は智の「見えない」という苦しみをほんとに分かってるのかなと思って、目を閉じて歩いてみたり、お風呂に入ってみたりしたことかあるんですか、五分と辛抱できないんですよね。

 目を完全に閉じると、自分の世界って、私の体の周りだけなんですよ。それで思わず目をパッと開ける。すると、視野がすうっと広がって、ものの形が見える、色が見える、心までパァーッと広がった感じがするんです。

 ところか智はこの喜びがもう生涯味わえないんやと思ったらね、私はどうしたらいいのか、と随分悩みました。そして、そうや。智には生来の明るさがある。元気さがある。だから、あの子の「心」を守っていこうと。それ一点に絞ったんですよ。

 だから私は智に勉強しなさいとか、あれしなさいとは一切言わなかった。それで智が「これか欲しいしあれがしたい」と言ったことは、本人の役に立つことだったら、主人に内緒でも買ってやったりして全面的に協力しました。

金澤:やっぱり目と耳が不自由な分、心のほうが開けてくるんですよね。翔子も知的障がいがあって、目標を持ったり、計算したりできない分、その時、その時の時間がものすごく豊穣(ほうじょう)なんですよ。

 それは私たちの観念からすると、かわいそうだと思うかもしれませんが、少なくとも彼女自身はものすごく幸せ。私たちみたいに人を疑ったり、恐れたりすることもない。全くもう、心のあるがままに、自分か好きになれば相手も同じよ

うに好きになってくれると疑わない。知的な面でマイナーである分、心によって非常に支えられている。その心の深さか、翔子の中で育ってきているものだと思うんです。

 書は写経をしなくちゃいけませんから、私は最終的には七万字ある法華経をやりたいと思っています。経文を理解するには、まず仮説を立てなくてはいけません。その時に、翔子が一番近くにいてくれるな、と思うんです。

 私たちは観念的にいろんなものがくっつき過ぎていますでしょう。そういうものが最初からない世界って、虚空を太陽か照らす如く平穏で美しい。でもそれは観念を取り去ればすぐここにある。そういうものを、翔子は障がいの代わり

に与えられたのかなと思いますね。

 先ほど智さんが「神は僕に何かを託しておられるように思える」と言われたというお話がありましたが、私もある本の中で「神は朝顔の咲く刻まで正確に設定している、ましてや人間に対しては……」という一文を見つけて随分救われ

ました。たぶん神様は何事も考えていてくださるんだと思うんです。そしてこの世に起こるすべての物事は緻密(ちみつ)に計算されて、いまここにあるような気がするんですね。

 

突然生まれた 世界初の指点字

金澤:ところでいま智さんが使っておられる「指点字」は、どのようにして思いつかれたのですか。

福島:私は智の耳がまだ聞こえていた頃、点字のタイプライターを覚えてほしいと頼まれて、あの子との手紙や点訳はタイプライターで行うようにしていたんです。で、智の耳の調子が悪くなってきた帰省中、復学した際に人との会話をスムーズにする方法はないかと考えてたんですが、一所懸命考えてる時には浮かばないんですよね。

 そんなある日のことでした。私が台所で片付けをしていた時、智が「お母ちゃん、何をグズグズしとるんや。もうすぐ医者へ行く時間やぞ」と文句を言って入ってきたんです。私は何を小癪(こしゃく)な、自分も一所懸命しとるのにと思ってね。

 でも言い返そうにも、台所にはタイプライターもない。その時に、智の手に字を書いてもいいし、耳のそばで怒鳴ってもいいけど、ふっとね、あ………いっつもタイプライターを打つのと同じように、智の指を叩いてみたらどうかなって。

 点字は六つの点で成り立っているので、点字タイプのキーも六つあります。それで、智の両手の指三本ずつ、合計六本に「タイプのつもりですよ」という意味を込めてポンポンポンポンポンポンと、初めに私の指でタッチをしました。それからゆっくりと

「さ  と  し  わ  か  る  か」

と打ったんです。そしたら智がね、さっきまで怒ってたのに、ふっと笑ってね、「ああ、分かるでぇ」と言った。

金澤:すごい瞬間ですね。

福島:私、嬉しかってね、その時、ほんとに………ヘレンーケラーがサリヴァン先生との出会いをきっかけに「ウォーター」とい言葉を学ぶ素晴らしい場面があるけれど、ここは狭い台所(笑)。でもそれが始まりだった。

 ただ、最初のうちは街中で智に言葉を伝える時、智の指に「指点字」を使って指を叩くと、「やめてくれ。僕のこの耳に話してくれ!」と言って嫌がったの。でも、智がいくら嫌がっても、私は智との会話は「指点字」でしたんですよ。一か月以上はしてたと思います。そしてそれが、まさかこんなに役に立つことになるとは、智本人も気がつかなかった。

 私は智が高等部三年に盲ろう学生として復学する前に「智はいま、“指点字”という方法で会話をしています」と寄宿舎へ通知をしておいたんです。復学した時、友達がワァーッとあの子の元に寄ってきて、智の指に、

「お  い  ど  う  し  て  た  の  だ  め  し  で  も  く  い  に  い  こ  う  か」

と打ってくれたんですって。

 智は母親がするのはうるさいなといつも思っていたのに、友達がしてくれて、それが自分に通じた。私はそれを横から見てるでしよ。そしたら顔がワッと赤くなって、その頬(ほお)が少しだけ緩んだ。その時に、智は「ああ、やったるで」と思ったって言うのよ。これやったらやっていけるって。その時、初めて「指点字」に光が差したの。

 

 

障害があってこその 人類の発展である

金澤:いやあ、素晴らしいお話ですね。私、つくづく思うんですが、やっぱり逆境や試練が人をすごく育てますよね。福島さんのように、この苦境を何とか脱しようとしてすごい考えか出ちゃうとか。

 私の場合は翔子によって、すごい力がこの世にあるんだということを感じさせてもらった。その時に、何かとても大きなものに抱かれた感じがして、何も恐れなくなったし、この世に起こるすべての事柄がみんな尊くて、どんなことでもすごいことなんだな、というのが分かりました。

 だから苦しみが人間を磨いてくれるんだと思いますね。また、そこからすごいものが生まれてくる。毎日お祭りみたいに楽しいことばかりじゃ、何もできないんじゃないかと思うんです。

福島:やっぱり人間、苦しいことがどなたにでもあると思うんですけどね。そこのところをなんとか耐えて乗り切っていってほしいなと思い、智の話を頼まれたらできるだけ断らないようにしています。

 目が見えない、耳も聞こえないというのは、言ってみれば極限状態ですよね。そんな中でも必死に生きている智のことを伝えることで、少しでも勇気とか元気とかを得ていただくことかできたらと思って。それが私のね、最後のご奉公かな、と思ってるんです。

 智がここまでくるのには、先生方も同級生も、学校中の皆さんが協力してくださったんです。智も私も、ほんとにたくさんの人に助けていただいていまがあるから、それがせめてものご恩返しになればと考えています。まあ、そうやって、「智を育てさせてもらった」ということが、私の使命だったのかもしれないですね。

金澤:使命ですね、きっと。それで使命が分かってくると、自分一人の苦しみから、だんだん公的な気持ちになっていくんですよね。

 だから私もそういう使命ができちゃって、最近はどこへでも出掛けていきます。障がい者関係、特にダウン症と聞けば、どんな遠くへでも行って「大丈夫ですよ」って。

福島:そういえばある時、智がこんなことを言いましたよ。「障がいや障がい者というものは、何十万年という昔からずっとあったものだ。そして、それがあったからこそ人類の発展がある」って。

金澤:ああ、そのとおりですわ。ダウン症も、古今東西を問わず、千人に一人生まれてくるんですが、これもやっぱり何かの使命を持って生まれてくるんだと思います。そしてそういう使命を持った子を育てる使命を、私たちは与えられましたね。私、いま本当にそんなふうに思うんです。              おわり(月刊誌「致知」11月号)